「西洋ではギリシャ以来、一つの語とそれが指示する対象の関係を考察することで、真理の観念が生まれてきた。感覚を通して、そこから観念語に意味を与える方向に向かうのが哲学的言語の歴史であり、使命でした」。一方、日本では明治以降、西洋の観念語に漢字を充て、翻訳語として受け入れた。だが、そこには決定的な断裂があるという。「翻訳語で、日本と西洋がつながると思ったのが最大の錯覚です。評論家の加藤周一はこの点を“日本人から考える力をすべて奪ってしまった”と評したが、私はもっと以前、中国の漢字と出会って以来、自分の使う言葉で自分を説明できなくなったと考えています。気はそのことをよく物語っています」

 日本語は詩的言語による写生文の沃野(よくや)となったが、哲学的言語を安易に輸入したため、観念語で考え、論述文を構成する力は根付かなかった。それを痛切に感じたのが、東日本大震災をめぐる言論状況だ。「終戦直後の状況とそっくり。坂口安吾が『戦争も一ツの天災だというようにバクゼンと諦めきっているのかも知れない』と書いたように、原発事故まで天災と思っているのか、現地を除き民衆の怒りが伝わってこない」

 フランス在住の知人に聞くと、当初、被災者の毅然(きぜん)とした態度を称賛したフランス人も、怒らない日本の民衆に違和感をおぼえる声が出始めているという。「この国では、社会的慣習の力が強すぎて、言葉から意味がなくなり、やることが決まっているので、何を言っても言わなくても同じという状態が続いている。あとは、言葉に単なる合図か、快と不快の感情を表出する役目だけが残されている」

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